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畳屋ブログ - 畳のほりごめさんのエントリ
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2007/04/12
畳の大きさを決めたのは信長?
カテゴリ: Tackmixのぼやき : 

執筆者: 畳のほりごめ (9:33 pm)
昨日の続きです。ちょっと長くなってしまいます。

畳は、鎌倉時代から室町時代にかけて、現在の和室と同じように、部屋内に敷きつめて、
床材として使用しはじめますが、それまでは、板の間の生活が殆どで、寝具や高貴な人の
権力の象徴としての「置き畳」的な使われ方がされていました。
(現存する最古の畳は、正倉院にある聖武天皇が使用したとされる物で、現存する最古
の畳敷きの建物は銀閣と言われています。)

おそらく、その時代の建築モジュールが、畳の大きさにも関係があり、いわゆる「京間、
本間、本間間」の関西・中国・四国・九州の3尺1寸5分×6尺3寸
(955mm×1910mm)のサイズであったのだろうと思われます。
この時代の解説には、「畳の大きさに家の大きさを合わせていた」とされている場合が多い
のですが私はそれには、疑問を感じます。
その「畳のサイズ」は、どうやって決めていたのでしょうか?

人間の歴史の中で、長さや重さなど、数量を測る必要性はかなり昔から認識されており、
親指から人差し指までの間の距離や、両手を広げたときの長さなど
「数量を合わせる方法」
は古代から工夫されていました。
今でこそ、「靴のサイズは26cm」というように細かい数値を言い表していますが、それは
直接比較する対象が存在していない場合に便利なだけであって、なにもセンチメートルを
使わなくとも、相手が同じ長さを認識できれば問題はありません。
現代では、双方で良く知られているという前提だからこそ、センチメートルを使うのであって
国が変わればフィートの方が判りやすかったりします。

日本最古の定規は、7世紀頃の物が出土していますが、これとて現在の全長に渡って
目盛と数値が書かれているものではなく、切り込みが何ヶ所かはいっているだけで、
おそらく書物の行間を揃えたりするための物だったと考えられています。
つまり、この場合も「あっちと同じ長さ」という感覚だけです。

さて、日本家屋ではどうだったかというと、畳に限らず、建具や柱の間隔が全て、
一間(いっけん)を基準としていたことが判ります。これは、元々両手を広げたときの長さ
だとされていますが、この長さは
人間ひとりの空間としては便利な長さだったのではないでしょうか?
よって、建物の基準が、一間や半間が基準となっていったと思われます。
この一間という単位が有れば、現場あわせをしない造作物は、持ち寄ったとしても長さが
合い便利だったのではないでしょうか?
よって、畳や建具も、「この時代のこの地方の一間」という
「共通の長さ」で作られていただけ、というのが私の見解です。
この場合、細かい目盛がある定規は必要なく、せめて一間の長さと半間の長さが判れば
大丈夫だったのでしょう。
その一間が6尺3寸だろうと、6尺5寸だろうと、あまり意味はなかったと思われます。
モジュールの単位としての「一間」が「共通である」ということが重要なのですから。
日本各地で畳の大きさが違うのも、ここに原因があるのですが、注目すべきは「地方で
偏りがある」というだけではなく「その地方で共通の長さ」であるということです。

このように、地域によって畳の大きさが共通しているのは何故でしょう?これは、その時代の
中心地や文化が広がるのと同時に、検地が行われたから、と考えています。
検地というと、豊臣秀吉の太閤検地が有名ですが、その前後にも検地は行われています。
織田信長と徳川家康です。織田信長の検地は、自己申告制ではありましたが、土地の
広さを測る単位、1辺は一間とされており、それが6尺5寸であったことがわかっています。
太閤検地は6尺3寸が一間、徳川時代は6尺0寸でした。これは、主に増税目的だった
といわれています。
ちなみに、太閤検地の6尺3寸=1間というのは、当時の長さを現在測ってみると6尺3寸
であったというのではなく、明確に定められており、国指定重要文化財として唯一現存
する「検地尺」によって窺い知れます。検地尺は、檜板製で表には2つの×印が1尺の
距離で記されており、その10等分として目盛があり、1尺=10寸となっています。
そして、石田三成の花押と署名があり、裏面には「この寸をもって、六尺三寸を壱間に
あい定め候て、五間に六十間を壱反に仕るべく候なり」と記されており、当時の1間が
6尺3寸であったことが、明確になっています。これは、同時にそのころには、ある程度
正確な寸単位の基準がどこかにはあったことが判ります。

ここで、考えてみましょう。
織田信長は、検地のために一間という基準を6尺5寸と明確に指定しました。建物の寸法
が1間や半間で基準としていたのならば、共通の長さとして基準にも使われやすいで
しょうから、信長時代の建築物が畳を基準に作られていたとするならば、なぜ畳の大きさ
は6尺5寸ではなく6尺3寸であるべきだったのでしょうか?
この時代は2つの1間が存在していたのでしょうか?
やはり、畳は「後から入れるもの」として認識されており、柱の中心から隣の柱の中心
までが6尺5寸の1間であったと考える方が自然だと思います。
その柱の太さがある程度共通だったとすれば、畳の大きさは規格化できたとも言えます。
この、遠回しな寸法の制限が、「信長が1間を決めたことによるもの」とするならば、確かに
「信長によって畳の大きさが決められた」とも言えるでしょうが、それは結果論ですし、
ましてや「戦のために?」という理由ではないことは明らかでしょう。

同様な理由で、一間の長さが時代と地域によって変わってしまい、各地の畳の大きさが
「結果的に」「その地域の畳の大きさ」として共通化されたのだと考えます。

つづく・・・
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